内田春菊の「カモンレッツゴー」を読む。
パチンコやらないのにパチンコ漫画、なぜなら、電車で拾ったものだから。
小柄だがカラダは大人、おっぱいがでかくて、パチンコでは負けなしの自称帰国子女。
クルクルパーの「クル」に、美しいの「美」、クル美の自由奔放な生(性)を描く。
ゴフマンの、自我は社会的なものであり、自由なんぞないのだ、という議論に対抗できるのは、彼女のような流れ者の存在だ。
社会学者が描くのは、理想的な人間であり、クル美ちゃんのように社会的観念なんざどうでもよい、いまの暮らしが楽しければそれでいい、決まった名前がなくても構わない。
そうした人物は「クルクルパー」として社会の外に囲い込まれおり、人間ではない。
社会学者はそうした「人間」を研究対象にしていない。
本当の名前を聞かれたときに、彼女は言う。
「しばらく離れていようよ」
「あたしがどこから来ようが、今まで何をしてようが、あたしはあんたのことをいちばん愛してるんだよ」
「その事実より過去のことにこだわるんなら、きっとあんたとは結ばれない運命だったんだ」
名前や地位、過去はその人物を社会化し、言語化する。
社会の中の位置づけを与えることで、その人物に特定の生き方を示す。
しかし、クル美には名前もない。地位もない。過去もない。
あるのは「彼を愛している」という現在だけである。彼女は完全に社会から解放されている。
きっと、その現在は、語るにはとても美しすぎるものによって導かれたのだろう。
白痴の輝きが全編に満ち溢れている。
「いちばんよいことは、その日その日の出来事を書き止めておくことだろう。
はっきり見極めるために日記をつけること。
微妙な違いを、小さな事実を、見逃さないこと。
そして特に分類してみること。
どういう風に私が、この机を、通りを、人々を、刻み煙草入れを見ているかを言うべきだ。
なぜなら、変わったのは、〈それ〉だからである。
この変化の範囲と性質とを、正確に決定しなければならない」

